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行田で育ち、行田で学んで良かったと思える教育の実現

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〒361-0037 埼玉県行田市大字下忍2451番地

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下忍小道徳科自作教材集『下忍の子の道徳』(第1集)

下忍の子と保護者の皆様へ
 子どもたちが学ぶ教科書に自分たちが知っていることや行ったことがある場所等の身近なことや逆に身近なことであっても知らなかったことが出てくると興味や関心を持ち、深く考え、調べていくのではないかと考えました。
 道徳科の読み物教材も下忍地区や行田市が素材となっている教材だったり、下忍小の先生方が作成した教材だったりしたら、子どもたちの関心や意欲をグッと高められるのではないかと考えました。
 教材をつくるには、授業で何を学ばせ、何を身につけさせたいかが明確になっていなければいけません。その上で、子どもの実態を踏まえて、どのように知的好奇心を刺激すれば子どもたちは考えていくか、どのように学んでいくか等々、様々なことを考えながら作成していきました。
 『下忍の子の道徳 第一集』は、図斉教諭がこれまでに作成してきた七教材を中心に、下忍地区や行田市を素材とした六教材、合計13教材で構成しました。今後も道徳科の研究を進めていく中で自作教材の数を増やしていきたいと考えています。
 結びに、新教科「特別の教科 道徳」は、授業をとおして、子どもたちの「道徳的判断力」「道徳的心情」「道徳的実践意欲」「道徳的態度」をそだてることを目標に、自己の生き方についての考えを深めることが何よりも重要となっています。保護者の皆様、子どもたちの日常生活や今後、出会うであろう様々な場面や状況について、教材を基にお子様と一緒に考え、話し合っていただくことが学校と家庭の連携につながっていきますので、ご協力をよろしくお願いいたします。
も く じ
・『下忍の子の道徳 第一集』で学ぶ下忍の子と保護者の皆様へ
・「道徳の窓」 行田の偉人・旧跡や文化財
「小学校低学年」
・1  たのしい学校 C5 よりよい学校生活・集団生活の充実
・2 元気に「はい!」 B3 礼儀
・3  がんばって B4 友情・信頼
・4  みんなでしゅっぱつ! C1 規則の尊重
・5  せいろくのゆうき C2 公正・公平・社会正義
・6  アサガオのつる A3 節度・節制
・7  おじいちゃんのむぎわらぼうし A3 節度・節制
「小学校中学年」
・8  獅子舞クラブ B2 感謝
・9  挑戦する勇気を持って A4 個性の尊重
・10 清水雪翁 〜志あれば必ず道あり D4 よりよく生きる喜び
「小学校高学年」
・11 ぼくらの学校「行田の下忍小」 C5 よりよい学校生活・集団生活の充実
・12 敗者のないノーサイド B4 友情・信頼
・13 だいすき行田市 C6 伝統と文化の尊重・国や郷土を愛する態度
道徳の窓 行田の偉人 行田の旧跡・文化財
川島 奇北(俳人・須加村生まれ)
 本名は得太郎。正岡子規の直門でホトトギスの最長老同人。埼玉の明治俳壇の三傑。句集『田園』
 県会議員・郡会議員・村長も務める
林 頼三郎(教育者・忍町生まれ)
 
十九歳で司法官(判事)試験及び弁護士試験に合格。その後、検事総長・大審院長・貴族院議員・司法大臣・中央大学総長等を歴任した。
芳川 波山(漢学者・潮来生まれ)
 三十三歳で忍藩校進修館に招かれ、多くの藩士の教育に当たる。漢詩を集めた『鴛城清吟』を編纂した他、自身の作品『囚山亭百律』を刊行。
中川 直木(市長・城西生まれ)
 四十五歳で市長に当選し、以降八期三十二年間行田市長を務める。繊維の街行田を北埼玉の中核を担う産業文化都市へと再構築した。
清水 雪翁(教育者・下忍村生まれ)
 忍藩士の四男として生まれ、藩校培根堂・我為我塾に学ぶ。三十四歳で廣田小学校長を退職し、堤根に私塾「成蹊書院」を開き、教育に当たる。
埼玉古墳群 さきたま古墳公園
 前方後円墳八基と円墳一基の大型古墳からなる古墳群。公園内の埼玉神社には埼玉県名発祥の碑がある。
国宝「金錯銘鉄剣」
 昭和四十三年、稲荷山古墳から出土され、昭和五十八年に国宝に指定。百十五文字が五世紀後半の歴史を解明した。
忍城(関東七名城の一つ)
 室町時代中期、成田氏が築城。要害堅固な城であったことから戦国時代に関東七名城に数えられる 昭和六十三年に行田市郷土博物館が開館し、御三階櫓も復元。
石田堤・中条堤
 石田堤は忍城の水攻めのため周囲を総延長28kmを築堤、中条堤は江戸を水害から守るため、北河原村に関東流による築堤をおこなった。 
下忍の一里塚(埼玉県指定文化財)
 鴻巣市箕田追分から館林城までの日光裏街道につくられた一里塚。この道は、中山道と日光例幣使街道をつなぐ道として整備された。県指定文化財となっている一里塚は県内にわずか六カ所しかない。
武蔵水路と利根大堰
 武蔵水路は利根川の水を荒川に導くための導水路として昭和四十二年に完成。利根大堰は首都圏の水需要に応えるため昭和四十三年に完成。
足袋蔵のまち行田(日本遺産)
 今から八十一年前、行田の足袋生産量は全国シェアの八割を占めていた。現在でも鳴門市に次ぎ二位の生産を誇る。平成二十九年に和装文化の足下を支え続ける足袋蔵の街行田として日本遺産認定。
行田浄水場と古代蓮の里
 行田郷土カルタにも歌われるとおり小針沼につくられた行田浄水場は、県内二十四市町の飲み水を供給。現在メガソーラー施設も設置。ふるさと創生事業として古代蓮の里は整備され平成十三年開館。
1 たのしい学校

きょうしつのようすです。うえのえをみて、きがついたことをみんなではなしあいましょう。

ひるやすみにこうていへあそびにいくおともだちのようすです。
うえのえをみてきがついたことをみんなではなしあいましょう。
2 元気に「はい!」
 ゆかは一年生。少しはずかしがりやで、みんなの前でへんじをすることがにがてです。
 朝のけんこうかんさつの時間になりました。先生がみんなの名前をよんでいます。 みんな元気にへんじをしています。
 いよいよ、ゆかのばんです。
 ゆかはむねがどきどきしてきました。
先生が、
「ゆかさん。」
と名前をよびました。
「はい…。」
ゆかは下をむいてぽつりといいました。
すると、先生は、
「おなかいたいのかな。ゆかさん、だいじょうぶ。」
と、しんぱいそうなかおをしていいました。
 ゆかは、(おなかなんでいたくないのにー。)
と、こころの中でつぶやきました。
 つぎの日、けんこうかんさつの時間になりました。
みんなは、「はい!」
 と、元気よくへんじをして、にこにこしています。
ゆかは、きのうのことをおもいだしていました。
「ゆかさん。」と、先生が名前をよびました。
むねがどきどきします。(どうしようー。)
しばらくだまっていると、
先生がゆかのそばにきて、やさしく「ゆかさん、がんばって。」と、いってくれました。
ゆかは、おもいきって、「はい!」といいました。
すると、先生が、「はっきりいえたね。ゆかさんが元気なことがよくわかりましたよ。」
と、にこにこわらってみんなの前でほめてくれました。
うれしくなったゆかは、おもわず元気に、「はい!」と、へんじをしました。
 その日のかえり道、
「気をつけてかえるんだよ。」と、声をかけてくれた近所のおじさんに、ゆかは、「はい!」と、明るい声でへんじをしました。
ゆかとおじさんはかおを見合わせて、にっこりとわらいました。
3 がんばって
 今日は、はじめてのせきがえの日です。
 たけしは、わくわくしていました。たけしはにはんになりました。
 ほかの三人は、みんなはじめておなじはんになったお友だちです。
「新しいはんのお友だちに自分の名前を言いましょう。すきなものもいえるといいですね。」と、先生が言いました。
「まさおです。かぶとむしがすきです。よろしくおねがいします。」
「かなこです。おえかきがすきです。よろしくおねがいします。」一人ずつじゅんばんに言いました。
 つぎは、えりです。えりは、顔をまっかにしてしたをむいていました。「よろしくおねがい…。」とても小さな声でした。
「もっと大きい声で言って。」一生けんめいにきこうとしているまさおが言いました。
 えりは、ますますこまった顔をしています。たけしは、どうしていいかわかりません。「だいじょうぶだよ。」
 そのとき、かなこが言いました。すると、さっきまで下をむいていたえりは少しずつ顔を上げました。
(えりさん、あともう少し。)たけしは、思わず心の中でそうさけびました。そして、えりの顔を見て、
「えりさん、がんばって。」と、力いっぱいおうえんしました。
 すると、えりは大きくしんこきゅうしてから、
「えりです。なわとびがすきです。よろしくおねがいします。」さっきよりも大きな声で言いました。「なわとびは、楽しいよね。」にこにこしながらまさおやかなこが言いました。
 えりは、言いおわるとにっこりとわらい、「たけしさん、ありがとう。」と、言いました。たけしは、そのことばをきくと、なんだか心がふわっとあたたかくなりました。
 つぎはたけしのばんです。「たけしです。ぼくもなわとびがすきです。よろしくおねがいします。」
 休み時間になりました。「みんなでいっしょになわとびしよう。」
「うん。あそぼう。」二はんのみんなの楽しそうな声が校ていいっぱいにひびきわたりました。
4 みんなでしゅっぱつ
「さようなら。」下校はんのはんちょうのたけしは、先生に元気にあいさつをしました。
 一れつにならんで歩いていると、本屋のおじさんが、「きちんとならんでいるね。」と、ほめてくれました。
 たけしはにっこりとわらって、お家をめざします。
 お店のかどをまがると、広場に三年生がたくさんあつまっています。
「なんていう虫かな。」「羽がすごくきれいだよ。」という声が聞こえてきました。
(どんな虫だろう)とたけしは思いました。
「ちょっと、まってて」
同じはんのかずやが、広場へ走って行きます。
「かずやくん、だめだよ。れつをはなれちゃ。」と言いかけましたが、声が小さくなってしまいました。かずやたちが楽しそうに話しています。たけしもわくわくしてきました。
 虫が大すきなたけしは、しばらく考えた後、広場にむかいはじめました。
 その時です。「たけしくん、つうがくろをまもらないとだめだよ。」友だちの大きな声が、聞こえました。
 すると、ついさっき、え顔であく手してくれた先生の
「はんちょうさん、しっかりたのむよ。」
 ということばが頭にうかんできました。
 広場にむかって走っていたたけしのスピードがしだいにゆっくりになり、足がぴたっと止まりました。
 そして、かずやにむかって言いました。
「かずやくん、帰ろう。」
 みんなはまた歩きはじめます。
「みんなで、しゅっぱつ。」
 うれしそうなたけしの力強い声が、広場いっぱいにひびきわたりました。
5 せいろくのゆうき
 せいろくは、しぜんの中であそぶことが大すきな子でした。いつも近じょの子どもたちとみんなであそんでいました。
 今日は、川であそぼうと思い、はしの近くまできました。
 すると、大きな男の子が三人でとおせんぼをしていました。
 せいろくは、そばの木にかくれるようにしてようすを見ていました。女の子がないています。
(よわいものいじめなんかして。よしたすけてやろう。)
と思いましたが、男の子はみんあせいろくより大きい子です。
(うーん。こっちは一人だもんな。一人じゃしょうがないや。)
せいろくは、しらないふりをしてそこをそっと通りすぎました。
 でも、いつもあそんでいる友だちが、(せいちゃん、がんばれ。)
と言っているような気がしてきました。(そうだ。ぼくが言わなくちゃ。)
「おい、よわいものいじめはよせよ。」せいろくは、おもいきって言いました。
「なんだ。おまえだっていつもいたずらをしているじゃないか。」
一ばん大きな子がせいろくのかたをつかんで言いました。ほかの男の子もこわい顔でにらみつけました。
「でも、よわいものいじめはしたことないぞ。よせよ。」
せいろくは、顔をまっ赤にしてはっきりした声で言いました。それにおどろいたのか、男の子たちは、
「なんだい。なんだい。」
とぶつぶつ言いながら行ってしまいました。
 せいろくは、きゅうにむねがどきどきしてきました。そして、ふうっと大きないきをしました。
「ありがとう。ほんとうにありがとう。」
というと女の子ははしっていきました。
 はしをわたるときにっこりしながら手をふりました。
(ぼく、まけなかったぞ。)せいろくは、心の中でさけびながら、家にむかってはしり出しました。
心やさしく、ゆうきのあるせいろくは、のちに日本のこうえんの父とよばれました。みどりをふやすために、すすんで多くのしごとをした「本だせいろく」は、さいたまけんで生まれた人です。
6 アサガオのツル
 下忍小では、一年生がはちうえでアサガオをそだてています。
 おひさまが、ぎんぎらまぶしいあさです。
 一年生の子どもたちは、とうこうしたら、じぶんのアサガオに水やりをします。
 だから、アサガオは、みんなげんきです。
 「みのるくんがまいにち水やりをしてくれるから、ぼくはこんなに元気。きょうもぐんぐんのびていくぞ!」
 「すきな方にのびていくとからまっちゃうよ。ぼくのほうにこないでよ。」
 「いやだ!そっちへのびていきたいんだ!おもいどおりにできるとたのしい!」
 「しちゅうにそって、まるくまるくのびていってよ。」
 「だ〜め、すきな方にのびていくとたのしいんだ。」
 みのるくんのアサガオは、とおるくんのあさがおのいうことをきき入れようとはしません。
 つぎのひのあさのことです。
 はちうえがとなりどうしだった、みのるくんのアサガオととおるくんのアサガオのつるが、からみあっています。
 子どもたちが、学校にとうこうしてきました。
 とおるくんが、アサガオのつるがからみあっているのをみつけました。
 「みのるくんのアサガオのつるが、ぼくのアサガオにからんでいるよ。どうしたらいいかな。」
 「つるのさきっぽをもって、ていねいにほどいていけばもとにもどせれるよ。」
 みのるくんは、ていねいにていねいにアサガオのつるをほどいていきました。
 まもなくじゅぎょうがはじまってしまいます。でも、まだ、さいごまでほどけません。
 みのるくんがあわててほどこうとしたそのとき、ほそいさきがポキッときれてしまいました。
 (いたい!)
 「とおるくんごめんね。めいわくかけないように、もうすこしはちうえをはなしておくようにするよ。」
 みのるくんは、もうしわけなさそうにあやまっています。
 なつ休みまえにアサガオのはちうえをいえにもちかえることになりました。
 みのるくんは、「もっともっと大きくなろうね。」と、アサガオにはなしかけました。
 みのるくんのアサガオは「           」とこたえました。
7 おじいちゃんのむぎわらぼうし
 かすかべしは、むかしから、むぎわらぼうしでゆうめいなところです。たけしのおじいちゃんは、むぎわらぼうしこうじょうではたらいています。
「ただいまっ。」
 たけしはげんかんでくつをぬぐと、かぶっていたむぎわらぼうしをポーンとなげました。
「たけし、きちんとかたづけなさい。」
と、おかあさんがこわいかおをしていいました。
 しばらくすると、おかあさんにおつかいをたのまれました。
「そとはあついから、ぼうしをかぶっていきなさい。」
 たけしとおねえちゃんは、むぎわらぼうしをかぶって出かけました。
 おみせにむかっていると、とつぜんつよいかぜがふきました。おねえちゃんのぼうしがかぜにとばされて、水たまりにおちてしまいました。おねえちゃんはいまにもなきだしそうなかおをしています。
 いえにかえるとすぐに、おねえちゃんはタオルでよごれをふきはじめました。
 夕ごはんのじかんになっても、おねえちゃんはまだふいています。
「あたらしいものをかってもらえば。」
と、たけしはいいました。
「だめなの。このむぎわらぼうしじゃなきゃ。このぼうし、一年生のときに、おじいちゃんにつくってもらったの。」
と、おねえちゃんはすごくおこっていいました。
「たけしのむぎわらぼうしだって、おじいちゃんにつくってもらったものでしょ。おじいちゃんがよくにあうよっていってくれたでしょ。」
と、いいました。たけしは、だまって下をむいたまま、じぶんのむぎわらぼうしをじっと見つめました。
 つぎの日もとてもあつい日でした。たけしはむぎわらぼうしをかぶって出かけました。あるいていても、ぼうしのことが気になりました。
 おうちにかえってくると、たけしはぼうしについたあせをハンカチでしっかりとふき、たなにおきました。
 それを見ていたおかあさんが、
「だいじにしているわね。」
と、にこにこしながらほめてくれました。
 たけしもにっこりとわらいました。 
8 獅子舞クラブ
「うわあ、獅子舞だ。人がいっぱいいるぞ。」
 ぼくがはじめて獅子舞を見たのは、今年の夏祭りの時です。お父さんとお祭りに行くとたくさんの人でにぎわっていました。舞台には笛をふく人、獅子舞を踊る人などが登場してきました。どの人も真剣なまなざしで自分の役をやりとげようとしていました。その中には、ぼくの学校の六年生もいて、少しおどきました。
 二月になり、クラブ見学の日になりました。順番に見学していき、獅子舞クラブの教室に入りました。そこには、六年生と獅子舞保存会の方がいました。
 「今日は、わたしたちの大切な獅子舞の踊りと笛を皆さんに見たり聞いたりしてもらいたいと思います。」
六年生はそう言うと、正座をして獅子の面におじぎをしてから衣装をつけはじめました。
(どうしておじぎなんかするんだろう。)
 いよいよ演技がはじまりました。かろやかな笛のリズムにのって大きく左右に体を動かし、獅子が生きているように見えました。笛できれいな音を出す保存会の方がかっこよく感じられました。
「みんなでやってみよう。」六年生にいわれ、まねをして動いてみたけれど、同じように踊ることができません。
(衣装を着けると動きにくいなあ…。)
笛も吹かせてもらったけれど、音が出ませんでした。
(……。)
 次のクラブを見に行こうとしたその時、保存会の方が見学に来たみんなにゆっくりと話し始めました。
「この獅子舞はね、西金野井地区に古くから伝わるものなんだよ。この地区のみんなが病気にならないように、お米がたくさんとれるようにという願いをこめておどっているんだ。」と、話をしてくれました。
 ぼくが、いつから伝わっているのか聞くと、
「江戸時代といわれているよ。」
「えっ、江戸時代からずっと…。」
 ぼくがびっくりしていうと、
保存会の方は、「そうだよ。でも、獅子舞をやる人が少なくなってできなくなってしまったことがあってね。それで、獅子舞をずっと、ずうっと続けなければと思う人たちで協力して『獅子舞保存会』という会を作ったんだ。
 君たちやこの地区のみんなが幸せになることを願っておどるこの獅子舞を大切にしたくてね。だから、この獅子舞を守っていきたいんだ。」
 「君のような子どもたちが獅子舞をおどってくれることが、何よりもうれしいんだよ。」
と、力強い口調で話してくれました。
 そして、保存会の方は、また笛をふきはじめ、六年生のおどる獅子をやさしい笑顔で見つめていました。
(そうだったんだ…。)
 次の日、クラブ見学の二日目、獅子の面が体育館に展示されました。ぼくは、昨日の話が気になって見に行きました。
 獅子の面を見ながら、ぼくのすんでいる地区にたくさんの人の思いがつまった獅子舞があることと獅子舞をずっと守ってきてくれた保存会の方のことを考え始めました。 展示されている獅子の面は、夏まつりの時とちがって見えました
9 挑戦する勇気を持って
 学校行事の中でも最大のイベントは運動会。紅組・白組に分かれ、応援を仕切る応援団長は、ぼくにとってあこがれの存在でした。今まで団長を務めた先輩方は、いつも前向きでかがやいていました。勝った団長はもちろんですが、負けた団長もいやな顔を一回も見せず、かっこいいなあと思っていました。
 六年生になったぼくは、応援団長に挑戦することで、自分を変えられるのではないかと考えるようになりました。なぜなら、これまでの運動会は五連敗、一度も勝ち組になったことがないからです。
 (小学校の運動会で一度は勝利を味わいたいな。みんなを引っぱっていくリーダーを経験してみたいな。でも、自分にできるかな、みんながついてきてくれるかな。)
 そんな思いが頭をめぐり、なかなか決断できないでいました。
 団長を決める日が近づいてもやってみたいと思う自分だけの気持ちで挑んでもいいのか、悩む中で手をさしのべてくれたのが、担任の先生の言葉でした。
 「小学生の頃に大きな経験をすれば、必ず後の将来に役立つはず。団長の経験はきっと君のためになるよ。挑戦してみたらどうかな。」と、声をかけてくださいました。
 その日の夜、ぼくは何度も何度もその言葉を繰り返し、団長への挑戦を決断しました。
 翌日、ぼくは胸を張って立候補しました。もう一人、団長の立候補者がいましたが、みんなの話合いでぼくに決まりました。
 紅組団長として、練習がはじまりました。しかし、うまくまとまらず、輝くどころではありませんでした。
 (本当にぼくが団長で大丈夫だろうか。やっぱり、立候補しなければよかった。)
 そんなぼくの背中を押してくれたのがクラスの仲間たちでした。
 「今日の練習のかけ声、とても大きくてかっこよかったよ。」
 「動きもきびきびしていて、団長さんっぽくなってきたね。」
 (輝いて見えた先輩団長も、きっと、たくさん悩み、時にはへこみ、苦しいこともあったかもしれない。)
 (団長として一生懸命努力し、前を向いて勝利へと進んでいったから、あんなにも輝いて、かっこよく見えたのだ)と思えるようになってきました。
 紅組も練習を重ねるうちに団結力も増し、勝利への期待がだんだん高まってきました。
 好天に恵まれた運動会当日、応援合戦では勝利したものの、二〇点差で紅組は負けてしまいました。
 今年の運動会は、大きな責任感と達成感が混じる特別なものとなりました。勇気を出して挑戦する大切さを学びました。
 応援団長として輝いていたかはわからないけれど、両親や先生、そして友達も、「よくがんばったね。」と声をかけてくれました。
 ぼくの挑戦はまだまだ続きます。挑戦すれば、失敗もあるかもしれません。でも、一歩踏み出す勇気があれば、その失敗でさえ自分のために役立ちます。
 簡単にあきらめずに挑戦し続けること、そのあとおしをする『勇気』を持って、残り少ない小学校生活の中でもいかしていきたいと思いました。
10 清水雪翁〜志あれば必ず道あり
 「先生、わたしが書いた字を見てください。お願いします。」
 (まずまずよく書けている。筆の入りが良い。払いの部分はこのようにするとさらに良い。)
 「先生、句ができました。どうでしょうか。」
 (なかなかのできだな。今後も自然を観る目を養っていくのだぞ。)
 「先生、また、本をお借りしてもよろしいでしょうか。」
 (この前の本は、もう読み終えたのか。本に親しみ、本から多くのことを学ぶことは大切なことだ。」) 明治時代、堤根にあった私塾『成蹊書院』での一風景です。この私塾で、生涯をかけ農村師弟に漢学を主とした学問を教えたのが清水雪翁です。
 雪翁は、幕末の安政五年(一八五八年)、下忍駒形において、忍藩の武士の四男として生まれました。生活は貧しくても、武士としての誇りを持ち、きびしいしつけの中で育てられました。
 八歳で佐間にある安養院で書道を学び、十歳の頃には殿様の雑用係をするようになりました。やがて、人一倍努力した雪翁は、秀でた才能を開花し、試験では必ず一番の成績を取り、殿様から賞をいただくほどだったそうです。
 十七歳になった雪翁は、埼玉村の小学校教員になりました。子どもたちに勉強を教えるための準備の他、時間を見つけては自らも多くの先生方から学問を学んでいきました。
 給料は、書籍を購入するための代金にあて、食事や生活費を切りつめる生活を続けていきました。いつしか、雪翁の蔵書は三万冊をこえるようになっていました。
 当時の小学校は、教科書や学用品、授業料を保護者が負担しなければなりませんでした。そのため、奉公や子守りのため、学校へ通えない子どもたちもたくさんいたそうです。(日清戦争の賠償金を基に小学校の授業料が無償化され、明治三十四年には就学率が九六%になりました。)また、高等学校や大学もありましたが、進学率は一%にも達していませんでした。
 廣田小学校長となった雪翁は悩んでいました。
 (このまま小学校で働くべきか。学びたくても学校へ通うことができない若者たちのために学びの場をつくるべきか。)
 雪翁は、十七年間の教員生活をやめ、堤根の自宅に私塾「成蹊書院」を開き、近隣の農村子弟に学問を教える道を決断しました。三十四歳の時です。
 校長を辞めたという知らせを聞いた知人からは、
「雪翁先生、ぜひ修史局(今の文部科学省)で、これからの日本の教育について、一緒に考えていただけないでしょうか。」
 (国の教育行政に携わる仕事は、二度とないチャンスかもしれない。でも、自分の立身出世よりも、今は、学問の裾野を広げていくことが大切なのでは……。)
「雪翁先生、埼玉和英中学(今の県立不動岡高校)でこれからの若者たちを導いていただけないでしょうか。」
 (自分を慕ってこれだけ多くの若者が集まってきている。これまで通り、郷土の子弟の教育に当たることが大切なのでは……。)
 雪翁は、すべての依頼を断り、成蹊書院の教育に専念し、これまで自分が学んできた学問を精力的に若者たちに教えていきました。なかでも、日本人の心の持ち方と考え方という道徳教育には重点を置き、若者たちにしつけもきびしく行っていました。いつしか、下忍村だけでなく、遠くは加須や熊谷からも通い、六百七十五人もの若者が学んでいました。
 大正二年(一九一三年)、五十六歳の若さで亡くなるまで、実に二十三年間、若者たちの教育に当たりました。若者の中には、後に、司法大臣となった宮城長五郎や県議会副議長となった増田一郎もいました。行田市の駒形にある遍照院の境内には、清水雪翁先生の功績を後世に残したいと考え、大きな記念碑が建てられています。
11 ぼくらの学校「行田の下忍小」
 今年の四月、転校生がわたしたちの学級にやって来た。名前は勇太。白のハイソックスとポロシャツがよく似合う、何となく都会の香りがするスポーツが得意そうな子だった。
 「東京の小学校から転校してきた山西勇太です。おじいちゃんの家が堤根にあり、行田には何度も遊びに来たことがありました。下忍小に来て驚いたことは、校庭がとても広いことです。サッカーをたくさんしたいと思いました。皆さんよろしくお願いします。」と、はっきりした声で自己紹介をした。
 勇太は、算数と国語もよくできるし、スポーツも得意だったので、すぐにクラスのみんなと仲よくなっていった。でも、ぼくは、何か下忍小のことを馬鹿にされたように感じてしまい、あまり勇太のことをよく思っていなかった。
 勇太の家は、ぼくの家の近所だ。だから通学班も同じで、登校も下校も一緒になる。勇太は話題が豊富で、東京の生活のことなどいろいろなことを話しかけてくる。でも、ぼくは、何かすなおに聞けないでいた。
 ある日、勇太から「熊谷へ映画を見に行こう」とさそわれた。勇太と楽しく行くことができるかなと思ったけれど、見たい映画だったのでお母さんの許しを得て一緒に行くことにした。
 熊谷までは、バスで吹上駅まで行き、JR高崎線の電車に乗って二つ目の駅が熊谷駅だ。バスに乗ると勇太が話しかけてきた。
 「前から聞こうと思っていたんだけれど、ぼく、何か悪いことをしたかな?」
 「どうして?」
 「話をしているとき、時々、いやな表情をしたことがあったから。」
 「転校してきたときのあいさつが下忍小を何か馬鹿にしているように聞こえことがひっかかっていたんだ。」
 「そうだったの。続けたかったサッカーのクラブチームを辞めて引っ越してきたので、くやしさとさびしさで口調が強かったのかな。」
 「転校してつらいこともあったんだね。ぼくの方から話を聞いてやれなくてごめんね。」
 (やっぱり、声に出して直接話をしないと気持ちは伝わらないんだなと思った。)
 誤解が解けた二人は、とてもたのしく過ごすことができた。映画のこと、サッカーのこと、学校のこと、二人の話は話題につきることはなかった。
 帰り道、バス停に着いた時、「ぼくの家に寄っていかない」と勇太からさそわれた。おじいちゃんの家の敷地に建てた勇太の家はとても広かった。部屋に入るとサッカーの大会でもらったトロフィーや縦がいっぱい飾ってあった。
 勇太のお母さんが部屋に来て、
 「下忍小はとてもいい学校ね。朝も地域の人が子どもと一緒に学校まで行ってくれるし、帰りも通学班ごとにみんなで帰るのでとても安心しているのよ。今までの学校にはなかったことよ。」
 「服装も、学校での着替えだってない、とても助かっているわ。」
 勇太も「前の学校は、校庭も狭く、人数も多かったので、ボール遊びもできないし、思いきり走り回ることもできなかったんだ。」
 「先生が一人一人よく見てくれるし、授業で解らないことも先生にすぐ聞くことができるし、勉強がわかりやすくなったよ。それに、お友達同士も仲がいいわね。」
 (下忍小には、他の学校にはないいいところがたくさんあるんだと思った。)
 以前、校長先生が朝礼の時におっしゃっていた話を思い出した。
 (下忍小の当たり前にできていることに気づくと下忍小の強みになっていく。)
 「勇太君、ぼくは、自分の学校のいいところに全然気がついていなかったよ。」
 「下忍小でがんばっているいいところを見つけていこうよ。」
 次の日、学級会でもっといい学校にするために、自分たちに何ができるか、みんなで話し合ってみようと思っている。
12 敗者のいないノーサイド
 平成元年十月二十三日、第六十九回全国高等学校ラグビーフットボール大会埼玉県予選決勝戦が熊谷ラグビー場で行われました。対戦は、七年ぶりの全国出場を目指す行田工業高校(現・進修館高校)と初優勝をねらう深谷高校でした。
 ラグビーでは、試合終了のことを『ノーサイド』といいます。試合が終われば敵も味方もないという意味です。ですから、ラグビーには、野球のような延長戦はなく、また、サッカーのようなPK戦もありません。勝敗は抽選で決まるのです。
 わたしの父は行田中・行田工業の卒業生で、部活動でラグビーをしていました。そして、この決勝戦にも、二年生としてただ一人、選手として出場していたのです。
 試合開始早々、父のミスで先制トライを奪われてしまいました。
 「貴史、まだ時間はある。気にするな。」島津キャプテンが声をかけてくれました。
 「ボールが生きている間はベストを尽くそう。」
 「最後まであきらめずにボールを追っていこう。」と励ましてくれました。
 しかし、先輩に申し訳ないという気持ちがいっぱいで、その声も父には聞こえなかったそうです。
 行田工業は、猛反撃に出ましたが、チームとしてうまくかみ合わず、無得点のまま前半戦が終了しました。
 負ければ全国大会に出場できない。そんな重い雰囲気がベンチに流れていました。
 (自分のミスで、先輩のラグビーが今日で終わってしまう。)
 「弱気になっているんじゃない。仲間をもっと信じろ。」
 (信じろと言われても信じられない。自分なんかが出場しなかった方がよかったんじゃないか。)
 新井監督は、ベンチに戻ってきた選手一人一人を笑顔で迎え、
 「これまであれだけ厳しい練習に耐えてきたじゃないか。ワンチームでチャンスを活かせば逆転できる。七年ぶりに花園に連れて行ってくれ。」
と部員にやさしく声をかけてくれました。
 島津キャプテンも
 「みんな気合が入っている、俺は負ける気がしない。」
 「俺たちはどのチームより厳しい練習に耐えてきたじゃないか。」
 「俺たちは最後まで絶対にあきらめない。」
 みんなで声を掛け合い、自分で自分を鼓舞し、闘志をかき立てました。
 後半がはじまりました。
 相手が前にボールを落としてしまうノックオンでスクラムを獲得。行田工業は、強力フォワードの活躍でそのままトライ。コンバージョンゴールも決まり七点を獲得しました。その勢いは止まらず、相手の反則を誘い、ペナルティゴールで同点に追いつきました。しかし、深谷高校も懸命に粘り、なかなか追加得点につながりません。
 (同点で試合終了となると、抽選で負けてしまう可能性がある。)
 試合終了間際、行田工業は、タックルされたプレーヤーがボールを放さないノットリリースザボールの反則でペナルティーキックを獲得。キッカーは島津キャプテン。
 難しい場所からのキックでしたが、キャプテンは落ち着いてゴールを決め、ついに逆転に成功しました。粘る深谷高校を十三対十で破り、四度目の全国大会出場を決めました。
 試合終了後、お互いの健闘をたたえ合いました。そして、監督の胴上げがはじまったとき、メンバー全員、涙が止まらなかったそうです。
 『ノーサイド』には、心を通わせ、お互いのプレーを褒め合い、悔しさとうれしさを分かち合うという意味もあることがわかりました。試合には勝敗があります。でも、『ノーサイド』には、敗者はいないことを父が教えてくれました。
13 だいすき行田市
 下忍小校歌の三番に『榎の塚の緑かげ』という歌詞があります。
 全校朝会で校歌の「榎の塚」は、館林道、別名「日光裏街道」に築かれた一里塚のことで、当時の姿を残している貴重なものなんだよ、と教えてくれました。
 わたしは、このことがきっかけとなり、自分が住んでいる行田に関心を持っていなかったことに気がつきました。
 (この一里塚がある街道は、どことどこを結ぶ街道なんだろう。)
 (全校遠足で行った埼玉古墳群のほかに、どんな見所があるんだろう。)
 (三年生の時、社会科で「マイ足袋」をつくったけれど、行田とどういう関係があるんだろう。)
 知りたいことが次から次へのわいてきました。
 教室にもどると美結がやってきて、
 「あの一里塚は、下忍村・埼玉村・佐間村の境界の地点にあって、道の両側に塚が築かれていたんだよ。」と声をかけてきました。
 わたしは、ますます興味を持ち、実際に街道を歩いてみたくなり、お母さんに、夏休みに友達と一緒に街道を歩いてみたいと相談しました。
 お父さんは、「館林道や一里塚について、ちゃんと下調べができていたらお手伝いするよ。」といってくれました。
 次の日、みんなに声をかけ、一緒に行ってくれる仲間と下調べの計画を立てることにしました。
 美結のほか、彩香、快斗と孝太の五人で行くことにしました。
 下調べは校長先生に教えてもらうことにしました。
 校長先生は、大きな地図を広げて、「普段は車や自転車で通り過ぎてしまっている市内をゆっくりと歩いていくわけですから、当日どんなものが見るかを予想することが下調べになります」とアドバイスしてくれました。
 みんなで話し合った結果、館林道のスタート地点であ箕田追分の交差点から利根川を渡る手前の羽生市川俣の関所跡まで歩いてみることにしました。
 待ちに待った当日、「江戸時代に整備された街道を一里塚をたよりに歩いてみる」、そんな気持ちでリュックサックを背負い、北鴻巣駅まで車で送ってもらい、五人で元気よく出発しました。
 出発地の箕田追分の「追分」とは道が二手に分かれる分岐点のことだとお父さんが教えてくれました。
 「案内板に、左 中山道、右 館林道って書いてあるよ。」
 「この道が中山道で、こっちに曲がると館林道なんだね。」
 「道しるべは当時の道路標識だね。」
 みんなの旅気分がかき立てられました。
 鴻巣市から行田市に入り、上越新幹線の下を抜けると、左手に石田堤史跡公園があり、土木遺産堀切橋をわたると学区に入ります。
 左手には、石田堤上にうえられた松並木と記念碑がありました。
 「石田堤は、忍城を攻めるために石田三成がつくらせたんだよね。」
 「『のぼうの城』という映画にもなったよね。」
 「じゃあ、行田が映画の舞台になったということだよね。」
 「ここまで来れば、下忍小までもう少しだね。」
 いつも見慣れた校舎を見え、みんなは少しほっとしました。学校を過ぎると一里塚もすぐ目の前です。
 「ちょっと休憩しよう!」美結がみんなに声をかけました。
 「一里塚の木陰で休憩するなんて、タイムスリップしたみたいだよ。」
 「この街道を歩いた人たちは、どんなことを考えていたんだろう?」

 休憩後、また、歩き始めました。右手にさきたま古墳公園がみえてきました。
 「この公園は、毎年、全校徒歩遠足で行っているよね。」
 「埼玉古墳群には九つの古墳があるんだよね。」
 「稲荷山古墳からは、国宝の金錯銘鉄剣が見つかったんだよね。」
 「丸墓山古墳の桜は、丸山桜という名前で有名なんだよね。」
 行田中の前の交差点を左折すると市街地忍城下にはいります。水城公園に近づくと街の様子とはガラッと変わり、忍城の城下町という町並みを感じました。
 わたしたちは、三年生の社会科で、行田の足袋づくりを学習しています。
 行田の足袋の最盛期は、昭和十三年(一九三八年)。約二百社が操業し、全国シェアの約八割を占め、日本一の足袋の街として繁栄していました。
 「『陸王』というテレビドラマは、行田が舞台だったよね。」
 「今でも行田の足袋は、鳴門市に次いで二位の生産なんだって。」
 「学習したことを現地に立ってみると色々なことが思い出されるね。」
 歩いていたのでたくさんの発見することができました。
 秩父鉄道沿いを進むと荒木小が見えてきました。隣の曹洞宗天洲寺には、鎌倉時代に作られた国指定文化財の木造聖徳太子立像が太子堂に安置されていました。
 「荒木宿は、行田と川俣の関所のほぼ中間にあり、五十軒以上の店があり、休憩を取る場所やたくさんの職人の街として栄えていたんだよ。」
 「宿の商家は五十軒以上もあり、荒木一座の芸能も行われていたそうよ。」
 荒木宿を超え、羽生市に入るとまた一面の水田が広がりました。並木橋の交差点からは松並木が続きます。「史蹟 川俣關所址」の碑を前に利根川が見えると、ゴールの道の駅はにゅうはもう目の前です。道の駅はにゅうには、お父さんがもう待っていてくれました。休憩や見学を入れて約四時間半の旅でした。
 帰りの車の中で、五人は旅をふりかえり、たくさんの話をしました。
(行田には古くからたくさんの人が住み、それぞれの時代にいろいろな文化を残してきていることを知りました。行田の魅力を多くの人にも伝えたい、未来にも残していきたい。)みんなの気持ちは一緒でした。
 「今日の旅をどんな風にまとめていこうか。」

『下忍村史』を読み解き、下忍村の学校の歴史を探る

下忍村の範囲

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下忍村は、旧下忍村(駒形地区は昭和26年4月に行田市へ合併)・樋上村・堤根村・鎌塚村・袋村の5ヶ村

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昭和26115日に発行された『下忍村史』の発行所は下忍村役場とあるが、『下忍村史』の背表紙には吹上町教育委員会編と書かれている

下忍村立下忍小学校の歴史(のちに吹上町立下忍小学校)

明治元年:鎌塚村(大佛 大翁)・袋村(永井 秀鏡)・下忍村(千塚秀裕・寺本造長・長谷田白明)に私塾が
     できる ( )は指導者
明治5年11月:真言宗智山派 医王山遍照院(行田市駒形1−4−18)を借り受け小学校開校
        校長は、進修館の平井東之進教授。
明治6年:小学校を持田学校・棚田学校・廣田学校・下忍学校に分設
     〇持田学校は浄土宗正覚寺(行田市城西4--21)旧西小学校
     〇棚田学校は真言宗智山派真福寺(行田市棚田町1−29)大井小学校
     〇廣田学校は長蔵院曹洞宗廣徳院に移転(鴻巣市広田896)広田小学校
     〇下忍学校は千手院(鴻巣市下忍3144)下忍小学校
      下忍学校は4月4日に開業式を行い、下忍村・鎌塚村・袋村・堤根村・樋上村の5ヶ村から通う
明治8年:宝積院(鴻巣市鎌塚37)に鎌塚分舎(鎌塚の子どもが通う)と
     永徳寺(行田市堤根19)に堤根分舎(堤根と樋上の子どもが通う)に分離
     下忍学校には下忍村と袋村の子どもが通うことになる。
明治19年:下忍・鎌塚・堤根の3校が合併し、修斉学校となる。校舎は下忍学校のある千手院を使う
明治22年4月:下忍村・鎌塚村・袋村・堤根村・樋上村が合併し、下忍村ができる
明治35年12月:千手院本堂の北側に下忍学校の新校舎が完成し、明治36年3月に移転する
昭和11年      :増築記念として国旗掲揚塔が寄贈される
昭和12年3月    :吉田義文村長 他1名から二宮尊徳像が寄贈される
昭和20年12月   :学童疎開の受け入れもあり、児童数は開校以来最高の707名となる
昭和22年 4月   :国民学校制度が廃止され、6・3制の義務教育となる。
            学校名は埼玉県北埼玉郡下忍村立下忍小学校となる
昭和26年 4月   :下忍村駒形の行田市合併に伴い、当該地区児童70名は西小学校へ転出
昭和30年10月 1日:下忍村全村が吹上町と合併
            学校名は吹上町立下忍小学校となる
昭和31年 4月 1日:下忍上分(箱根田・京田・東谷・西谷)・樋上・堤根が行田市に分村合併
            当該地区児童の吹上町立下忍小学校への区域外就学が認められる
昭和31年 4月 2日:大字下忍字西谷の一部を吹上町に分離
昭和33年 3月13日:行田市大字下忍205番地に新校舎が完成
            当該地区の児童の授業を新校舎で開始
昭和33年 4月 1日:独立開校
昭和33年 4月 2日:吹上町長・行田市長により学校施設・備品等の財産分割協議成立
            吹上町に合併した財産のため、吹上町65%、行田市35%とする
            旧下忍小学校(鴻巣市下忍2824番地)の廃校処分が決定
昭和33年 4月 5日:分割備品引き取り完了

下忍村立下忍小学校はどこに?

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写真と現在の地図を見比べると千手院と愛宕神社の間の道を入ったところに下忍小学校があったことがわかります。下忍村立下忍小学校があった住所は鴻巣市下忍2824番地ですグランドに?がる道の右手にあるのが千手院本堂・右上端にある建物が下忍村役場(行田市樋上773番地)この校舎は、昭和33年4月2日に廃校処分が決定する

下忍村立下忍小学校の校舎(明治35年12月に完成)

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当時の校舎の写真ですが、昭和11・12年に寄贈された掲揚塔と二宮尊徳像が写っています。

下忍村立下忍中学校の歴史

 

  下忍村立下忍中学校

 吹上町立吹上中学校 

昭和22年 4月 1日 〇下忍小学校(現:鴻巣市下忍2824番地)から講堂及び西校舎3教室を貸与され校舎を共用して開校
〇初代校長 門井三郎氏着任 
〇埼玉県北足立郡吹上町小谷村学校組合立吹上中学校として開校
〇初代校長 筒井 操氏着任
昭和23年 4月 1日   〇第2代校長 島田利三郎氏着任

 

昭和24年 4月 1日

 

  〇第2代校長 前川三郎氏着任
昭和26年 7月16日 〇下忍中学校の校舎新築(現鴻巣市立下忍小学校がある鴻巣市鎌塚10番地)に伴い移転

 

昭和29年 7月 1日 〇吹上町小谷村の合併により校名を吹上中学校に改称
昭和30年10月 1日 〇下忍村分村合併に伴い学校名を吹上町立下忍中学校に改称 。下忍上分・樋上・堤根の生徒は、行田市立行田中学校へ編入  

 

昭和30年10月23日 〇吹上中学校校歌及び校旗を制定 
昭和33年 4月 1日 〇第3代校長 関 森作氏着任  〇第3代校長 徳屋晃恭氏着任
昭和33年10月 1日 〇吹上町と下忍村(下忍下分・鎌塚・袋)分村合併により、吹上中学校と下忍中学校の両校を廃校とし、新しく統合吹上中学校を設立
〇この日を開校記念日と定める 
昭和34年11月30日 〇吹上町立吹上中学校は吹上町大字吹上710番地に鉄筋3階建て校舎が完成し移転する 
昭和34年12月 1日 〇吹上町立吹上中学校の移転に伴い、統合吹上中学校があった鎌塚10番地に吹上町立下忍小学校が移転する。

下忍村立下忍中学校はどこに?

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下忍村立下忍中学校の校舎(昭和26年7月に完成。現在、鴻巣市立下忍小がある場所)

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吹上中学校の校舎新築に伴い、昭和34年12月1日から吹上町立下忍小の校舎となる

旧下忍中学校は、昭和26年7月16日に現在の鴻巣市立下忍小の場所に校舎を新築し移転したました。
 また、吹上中学校校舎新築による中学校移転に伴い昭和34年12月1日から旧下忍中学校の校舎が吹上町立下忍小学校の校舎になりました。
 つまり、昭和34年12月以降の吹上下忍小学校の校舎が下忍中学校の校舎ということになります。確かに、小学校の校舎というより中学校の校舎という感じがします。
 上の航空写真は、行田市立下忍小開校25周年を記念し、昭和57年に撮影された写真です。下忍地区の上空から撮影した写真をよく見てみたら、左下に現鴻巣市立下忍小の場所が写っていました。
 この写真からも、当時、木造2階建ての校舎2棟あることがわります。