音楽大学1年の時、昼休みに手作りの弁当を中庭で一人食べている時、今は亡き疋田先生に弁当をしげしげと眺められ、「君は音楽でこの先どうなるかは分からんが、料理の勉強は続けなさい。」といきなり言われました。

 声楽でイタリア留学の時も、壁にぶつかる度にイタリア料理の本を辞書を片手に翻訳しつつ、作っては食べて、苦しみを紛らわしていたものでした。

 そうして、我が家で(小さいアパート暮らしです)オペラの仲間との稽古がある度にイタリアンのフルコースを実費を集めて作っているうちに、料理教室を開く事になってしまいました。

 でも始めは、イタリア人を日本料理で持て成した時「もう日本料理でパーティを開いてくれなくてもいいよ」と言われ、それならばイタリアンで!!と敵討したのが、興味を持つ源流にあるみたいです。

 今は、人生の喜怒哀楽を隠し味に、料理教室、デパートのフェアーやイベント等で、オリジ
ナルイタリア料理を紹介させて頂いております。




 幼稚園の頃、母がよく砂糖水に氷を入れた飲み物を作ってくれたのですが、たまたま母が居ない時、幼稚園の友人2人にそのドリンクを見よう見まねで作ってあげました。

 そうしたら2人とも「まずいっ!」と言って飲んでくれませんでした。

その時のショックと悲しい気分は今でも体から離れません。




 留学から4年ぶりに一時帰国した際、私の実家(埼玉県行田市)に行かずに、まず妻の大 阪吹田の実家に行った時のことです。

 妻の祖母は当時90歳を超えており、ガンに冒されていました。

食べたものを胃で消化できず、戻してしまう様な状態でした。

しかし、私がイタリアから持ち帰った食材でティラミスをご馳走したところ、「はぁー、世の中にはこんなにおいしいもんがあるんやなぁ。初めて食べさせてもらいました。ありがとう、ありがとう。」と言ってくれました。






 留学を終えて帰国後間も無く、留学中に亡くなった恩師 野呂信次郎先生にご報告に伺う べく、先生の奥様 愛子先生が入所されていたヴィラに行った時のことです。

 今は亡き愛子先生は体調が思わしくない状態でしたが、先生の好物のバタークッキーを手作りして持参したところ、それはそれは飲み込むのも大変な様子でしたが、一所懸命召し上がって頂き「本当においしいクッキーです。」と言って頂きました。

 そして音楽を通じて生活のめどが立っていないことを知り、「おいしいお料理のように形のあるものなら皆さんに召し上がって頂きながらお金を頂戴できますが、音楽で人様からお金を頂くと言うことはそれは難しいことなのです。

 自分の音楽をどんな事があっても続けていくしかないのですよ。とおっしゃっていただきました。




 平成16年2月8日、この日母は、朝から農協やスーパーに行って一日がかりで切干大根を作ってくれました。

 ヘルニアの影響で、夜になると足腰がしびれて眠れないと言う状態が20年近く続いており、その頃は「昼もしびれて敵わない」といっておりました。

 「たまには料理もしたいから軽い包丁を買っておいてね。」と言われていたので買っておいたところ、早速作ってくれているのだと思いました。

 野菜を切るのも以前の母とは違い、変形し、痛みを伴う手では本当にゆっくりゆっくり、気の遠くなるような作業だったた思います。

 夕食の食卓に私達の作った料理に並んで、母の、食べきれないほどの量の手料理も1品加わりました。

「一緒に食べようよ」と言ったのですが母は首を振り、「疲れちゃったから、後でゆっくり食べるからね。今はお前たちだけで食べなさい。」と言いました。

 食後「お母さん、本当においしかったよ」と言うと満面の笑顔で「そうかい、よかったとかった」と言ってくれました。

 まさかそれが生きた母の顔を見る最後だとは思いも寄りませんでした。

 翌朝、母の部屋に入った時、仏壇の前に屈み込む様に亡くなっている母を私が発見することになるのです。

 その日の午後、急の悲報で駆けつけた弟と一緒に食べた母の手料理の味は一生忘れません。

言葉に表せないほどありがたく、感謝に溢れた、そして悲しい味がしました。